隼田院ハザマ日記 33:00~34:00
- seamaaaaan
- 2021年12月5日
- 読了時間: 2分
更新日:2022年2月11日






* * *
もしも自分が物語の登場人物だったら?
もしも自分が誰かが作ったものだったら?
こんなに空しいこともない。
であれば、私の見目もだれかの手によって作られ
故意にこんな目にあったのか?
現状という機能を用いるために。
現状という機能が、この程度しか機能しないと知って。
私はあの時、あの人の手をみた後、振り返ってもう少し考えた。
敢えて作られていても、作られていなくても、その結末は同じだったとして?
現状という機能は、今生きているそれぞれが作る。
私にアバターを頼んだ人々のように
『かわいい』『かっこいい』『キレイ』そんな私を作っても良かったのではないか?
そうも思った。
逆にそれらを平坦な記号として捉えるなら、私とて分解すれば同じく平坦な記号である。
記号に価値の優劣をつけてもよいとされ、
現状、優劣をつけた事にさえ無意識であり
そのように触れていていいものだとされているのなら
記号の傾向で左右されるその思いとは、一体なんなのだろうか?
見目からして生かせばいずれ損すると、私の母とて思ったはずだ。
なぜ?
問わせないでほしかった。
なんで生きるんだったっけ?
児童向けのパンのヒーローが活躍するアニメーションでそんな歌も歌われていたっけ。
そんなのみんなやる問いだし、あっていいじゃん!
……という事なら、ずいぶん無責任だ。
では、もしも私に紙に描かれた漫画のように命も精神もなくて。
いま感じる、かゆみも、苦しみも、息苦しさも、めんどうくささも、ケガも、病気も
みんなみんな架空だとして
それらが人の誰かに見せるためにあるのなら?
私の見目とは、私の考えとは、私という作品とは
さぞかし、くだらないものなのだろう。
そうしてそれを思った私は
感情も、誰かに何かみせるためにあるとして
だからなんなのか分からなくなった。
そのギミックの、仕組の、定番の、ルーチンの、どこに皆盛り上がったのだろうか?
まるで記号や、信号だ。


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