隼田院ハザマ日記 32:00~33:00
- seamaaaaan
- 2021年12月5日
- 読了時間: 2分
子子子子こねこは言った。
『感情というのは、その人そのものよ。
それは理性では抑えられなくて、そこに言葉なんていらなくて
その人がそこにいるだけでそこにある。光みたいな、熱みたいな。
どちらでも、……よくなくない?』
ライオンハートは言った。
『お前の望みは…、それでは叶えられないかよ?
"好ましくない" 奴らを全部壊すんだ。失くすんだ。』
ゴリラのシュナイダーは言った。
『私は――……ホルスさん。
貴女の隣人で在りたいのです。
手を取り合う仲間や、友人として。
剣でも。盾でも。鎧でも。
道具でも、無く。
それが私の在りたい形です。』
こうして私は、いろんなひとからきもちの話をきいた。
みな、大事なものとして話しているようだった。
当然だが、軽んじるわけではない。
私当人の解像度の低さの問題なのだろう。
最終的に、不快でない道のために選択するのは私とて同じ。
たとえば私も、それらしく演技をして、感情にまつわる好意的な反応が返ってくれば
それをひとつ布石に使えて助かる。
それは私が気楽にいきていられるための、安全にしていられるための、
そういうものへのプラス効果を狙いたいのであって、
それの達成に貢献して貰えそうな気配のことを
ひとは、手ごたえとか希望とか呼ぶのだと思っていた。
私は彼らの言葉をきいて、彼らの手ごたえや希望がどこだかの見当がまだついていない。
なんのためにその語をかけてくれたのか、おそらくは分かったほうがよいのだろう。
こねこちゃんの言う熱は、無意識での呼吸という機能のように聞こえ、
サーモグラフィがうごいていて、ひとには体温があって、体温があったかいとして
電源をいれたこたつだって暖かい。比べてなにがどうなのだろう。
ライオンハートのいう破壊は、純粋に壊し続けていけば
私がサバイバルせねばならない世界になるものだ。
破壊衝動とは、比べてなにがどうなのだろう。
シュナイダーの言う、道具と隣人とは、どちらも同じ作用をもつように聞こえ
ことばをはなすAIが、人間と違うことは理解できるが
AIよりも有機的な道具と考えるとき、比べてなにがどうなのだろう。


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